新たな制作について
- メグミ ヨシダ
- 4月1日
- 読了時間: 2分
世間から外れた欲望を持つ事で生き永らえてきた自覚がある。
服以外のものを作りたい欲望に駆られたのは
前頭葉への刺激により現状の転換を目的としたからだった。
そこには服作りへのアプローチに限界を感じていた事から、服の概念を見直したい経緯があった。
そのために服以外のものを作りたいなんて
何を言っているのだ、と思われるかも知れないが、服と向き合う為に必要なプロセスだ。
しかし服の概念を見直すというのは見当もつかない未知な領域である。
手探り状態で正解も解らずに何かを作る日常が始まり、それは作品を形にしながら模索する行為となる。
その中で手掛かりとなるのは作品の完成イメージと自分の特性を追求する事だ。
ある日パートナーにあなたは徴候親和者であるという否定出来ない診断を下された。
彼曰く、
徴候親和者は基本的に入力解像度が高く、常に何か起こりそうな予感に恐怖し、危機回避の為に物事を先回りして察知し、思考し、行動する。
これは日常生活をおくる上では邪魔な能力だ。
具体例を挙げると、
長時間、炊飯器で保温されていた米を食べると違和感がある。(電気の味がする)
電気ケトルで沸かしたお湯は硬い味がする。
電源タップの音がする。
などだ。

そういえば
昔観た邦画に、主人公が定食屋に入り注文すると店主が事前に注文内容を知っていたかの様に求めていた定食を提供する、次に主人公が再度来店した際には、席に着くと同時にその時注文しようとしていた定食が用意されていたという一コマがあった。
この客に主導権を一切与えない店主は徴候親和者である。
何故なら、お客さんからの要望を過剰に受け止めて恐怖のあまり先回りして答えようとし過ぎて不気味さが上回っているからだ。
この店主の恐怖心からくる一連の行動はまるで私の日常を再現しているようだ。
徴候を利用した制作とは作ろうとしている作品がなりたい姿を予期し、憑依し、形にしていく行為である。
私の徴候性は創作において役に立てる他に使い道がない。
今回添付している写真の作品には「添え物」というタイトルが付いている。
主題となる何かの脇に添えられる物、そこには主題を仄めかす何かがある。
















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